退廃的文明開化

気ままにノベルゲームの感想を投稿します。

『終のステラ』感想

1.はじめに

『終のステラ』をクリアした時に感じた率直な意見は「面白かったけど、どこが面白かったのかをうまく言語化できない」だ。なんだか一つの映画を見たような感覚でフワフワしていたが、演出に引っ張られて過剰に評価してしまっているだけではなかろうか?という疑問が拭えなかった。結論として、過去作を思い返すことで面白いと感じた個所の言語化には成功し一時的に満足したのだが、その後既プレイ者と感想を話したら(とはいえ私はくだを巻いていただけのように思えるが)ふつふつと作品についての思いが再燃し、仕事をしながら一日中考えて、本日ついに筆を執った次第である。

 


作中における"人間"についての補足的文章でありつつ、過去作との関連についても記述できればいいなと考えている。まぁ所詮私の感想なので「こんなことを一日中考える暇があるなんて、ずいぶん大変なお仕事をされていらっしゃるんですなぁ」とでも思いながら読んでいただければ嬉しい。なお、本稿には『終のステラ』は勿論『加奈』や『家族計画』についての言及があるので、気になる方はブラウザバックしてください。

 

2.作中から見る人間とは 


前提として人間は生まれながらにして社会の最小単位である家族に属するソーシャルアニマルだ。無論その社会に適応できるか、あるいはそもそもその社会が生存するかはケースバイケースである。

そして作中においても、社会に属するかどうかが同族として扱われるか否かの重要なファクターとなるのは、フィリアを連れて街に戻った際に野人(社会の外で育った人間)が撃たれた話からも明らかだろう。では、撃たれた彼は生物学的にみて人間ではなかったのか?と問われると肯定はできない。ここから見えてくるのは人間か否かは生物学的見地から判断されるのではなく、主観的な価値観から判じられるという極論だ。事実として情緒が未発達であったあの時点のフィリアですら人として通過している。

だが、人間と判断されたので旅は終わり、とはならない。故に「人間になりたい」という願望の成就が示すのは「人間だと認められて、人間だと自認できること」という極めて主観的な価値観である。(これは余談だが、現代人はAIからみて人類の遺伝的定義から外れているため、人類だと判断されていないという会話があったが、このAIと人間の判別方法の明確な違いは人間の本質を表しているようで面白いと思う)




他にも人間か否かの判別において、非常に印象的な箇所がある。それは、周囲にフィリアもいたにも拘わらずデリラだけがクリムゾンアイの攻撃対象となったこと、その後、主人公への憎悪や殺意を抱いたフィリアがクリムゾンアイの攻撃対象となったことだ。クリムゾンアイの目的は確か、新人類の意思を代弁してAIを操るAe型アンドロイドを破壊することである。そしてAe型アンドロイドの全てが破壊されるのではなく、一定以上の自我を持った個体のみが破壊されるというのだ。それはつまり状況証拠から見て、導くべき人類を主観的に選別できること(⊂矛盾の自己処理が可能か)が自我判別のトリガーとなっているということではないか。





この辺りは、記憶を改ざんして辛い仕打ちを受けていた過去を綺麗な思い出に変えたデリラや生きることが嫌になって嘘だと認識しながらも演技をするフィリアを見ると非常に顕著である。人間とは悪性も善性も抱えながら、その矛盾を自己処理し、主観的に社会を形成する動物なのだ。





上記は作中で提示された無機質で冷淡とも言える人間の定義であるが、実際にジュードやフィリアが見出した人間の定義は「本能に対して、感情や体験をもとに理屈を後付できること」だと思っている。本作の終盤で人類の復権かフィリアかを選ぶシーンがあったが、本能的に考えれば、種の生存が第一優先であるはずだ。合理的に考えても、アンドロイドが一体犠牲になることと、人類が全盛期の以上の科学を手にすることを比べたら人類を救うほうが正しく思える。ただしこれはトロッコ問題で例えるならば、分岐直後のA線上にフィリアがいて、B線上の視覚では捉えられないほど遥か先に人類が横たわっていると確証もないまま伝聞しただけであるというのが、当事者として見た時に判断を難しくしている。フィリアを犠牲にしたところで、その先に人類の滅亡がないとは誰にも保証ができないし、フィリアを犠牲にしなかったからと言って人類が滅亡する確証もないのだ。

最終的には種の復権よりもフィリアの生存を選ぶわけだが、その行動原理を「家族だから」とか「娘のように思っているから」といった無条件の華美な綺麗事で語らずに、泥臭い交流の果てで芽生えた利己的な感情から反射的に選んでしまったと語る点や親から子へ、人から人へ繋ぐ言語化は難しいが大切な何かを託すことによって、悩んだ末に手放したはずの未来はフィリアだけが犠牲にならずとも傍らにあると死に際に気づく点は非常に人間らしくて好きだ。




ただ、もし自分があの世界で苦しみながら生きている人間の一人で、ことの顛末を知ることができたのなら、ふざけんなと言ったかもしれない。明日救われたかもしれないのにと愚痴るかもしれない。きっと、ジュードが第三者であっても似たようなことを言っただろうなと思う。

誤解を恐れずに言うならば、これは人類の生存という大きな問題に対して利己的に本能に反し、利己的に理屈をつけ、利己的に託していっただけの話だ。このエゴイスティックな理論武装こそが合理性も矛盾も殺す人らしい心であるが、それはつまり当事者だけが満足する結果とほぼ等しい。

にも拘らずこれだけの満足感を得ることが出来たのは、この価値観や価値観を形成するに至った背景が現実的でありながらも美しいからだろう。ジュードが繋いだ生き方を発展させながら社会と関わり、次世代へと繋いで生きていくフィリアの姿は人類の未来への不安を見事に払拭してくれたと思う。


3.過去作との関連と本作の評価について


さて、本作で語られた価値観は、過去のロミオ作品においても語られてきたように思う。例えば『加奈』からは、上述した価値観の片鱗が見える。本作は死生観ばかりが取沙汰されがちだが、本能的で社会的な家族愛に病気や不遇さから理屈をつけて生まれる、互いが互いを経由しながら社会と繋がる退廃的とも呼べる共依存を、死や美化した家族という枠組みの持つパワーで正当化する作品でもあったと思っている。(最終的に共依存を脱却するのかどうかや、脱却の方法はエンディングごとに違いがあるが。)

エロゲ的文学がまだ未成熟で、所謂泣きゲーであれば、どちらかと言えば綺麗な世界を描くことが主流だった時代だからか、不幸を生むための運命的な不条理は描けど、ドロドロした人間の醜さや相容れなさから来る不条理は描いていない。とはいえ、加奈の死までを整理し出版することで、次の世の中に繋ぐ役割を主人公が担うエンディングもあったため、当時から概ね同じことを言っているのではないだろうか。




また『家族計画』は最小単位たる家族にフォーカスを当て、様々な理由から社会に適応できず希薄な繋がりしか持てなかった登場人物たちが打算や成り行き、切実な事情から擬似的な家族関係を結び、協力し合うことで世界と自己の認識に折り合いをつける作品だ。これは決して、家族かくあるべしと言わんばかりに家族の美しさや正統性、あるべき姿を押しつけがましく語る、綺麗で鼻につく”べき論”などではなく、「こうあればいい」や「こうであれば救われる」と言った”願い”や”祈り”である。

更に、FDである『家族計画 ~そしてまた家族計画を~』では、家族制度の損益も人間関係の美しさも汚さも認めた上で、それでも人と人は関わらずにいられないことや関わってほしいという願いを伝えて、自身が得た人生観や処世術を次世代へと繋げた。これをゲーム開始当初は反社会的とも言える厭世観を持っていた主人公が行うのだ。人間的美徳とは世界を妄信し善行を行うことではなく、こういうことであると私は思う。(私がするかはおいといて、だが。)

こちらについては『加奈』より明瞭で、過程や時代背景等は違えど、ジュードやフィリアの気づきと『家族計画』に込められた祈りは、非常に共通項が多いと感じられる。本作においてジュードとフィリアが父と娘の関係性に収束したのも繋ぐことを重要視するロミオらしさの顕現と言えるかもしれない。


とはいえ、私にはライトノベルを含めたその前後の作品にかなり空白があるので、田中ロミオにわかが、自分がプレイした作品の中で見つけたつもりになっている共通認識的共通項を殊更に取り上げてハシャいじゃってるだけで、ツウから見たら失笑モノかもしれないが、とかく今作の主張だと私が思う箇所は、ロミオ作品において珍しい価値観ではないということには触れておきたかった。これは私が『終のステラ』に対して一定の評価をしながらも特別な評価をしない理由となるからだ。本作からは洗練されたロミオ的価値観が散見されるが、その反面、目新しさもないというのが最終的な評価である。ただし、テキストも非常に面白く考えさせるものだったし、良い作品だったと胸を張って言えるのは間違いない。とお粗末なフォローを入れて、ツウ共を気持ちよくさせたところで本稿を締めくくりたい。