退廃的文明開化

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『恋する少女と想いのキセキ ~Poupee de souhaits~』感想

はじめのうちは近江谷ヒロイン・主人公らしさを楽しみながら読んでいたが、読み進めていくうちになんて残酷な設定なのだろうかと思った。人形はたった一つの大きな願いを宿した存在で、思い出を持てない。取り戻せない過去は未練となって器がよどみ、存在を維持できなくなるのだという。

 

トワ√でも、エナ√でも、彼女たちと主人公は基本的には思い出を共有しないまま共に過ごす。ドールに過去への信頼はなく、いつ満たされて消えていくのかも分からないのであれば、未来への信頼もないのと同じだ。
彼女たちはまるで世界五分前仮説の被験者である。

 

基本的に恋愛は約束をして未来に希望を持つものだ(というよりも、そういう展開が世の中的に好まれている)と思ってるので、彼女たちとの恋愛をどのように描くのか怖くもあり楽しみでもあったが、結果ちゃぶ台返しのようなものもなく、納得のいく描き方をしていてよかった。(いやほんと、愛で人間になりましたみたいなキショイ展開がなくてよかった。)

 

 

 

互いの終わりを互いに委ねることで、お互いのずっとの意味を重ねる。それは、主人公のそばにいたい想いと消えたくない想いが融和して、ずっとを重ねるために今お互いを終わらせようとしたトワに対するアンサーで、こういう存在と綺麗事じゃなく愛し合うのならば、この呪いは必要なことだろうなと感じられた。

 

 

 

天音の言葉の通り、他者と交わらず二人きりで、遺された想いに寄り添いながら生きる。互いが互いにとっての世界である姿は人によっては受け入れがたい終わりではないだろうか。エナ√でも共に生きるために一度自我の消失を行っているし、幸せそうな二人を見て感覚的には満足しても、よく考えたら不幸ではないかと思っても不思議ではない。これは、どう生きてどんな価値観を持っているのかによって変わりそうだが、合わなかった人はきっと幸福だろうなと思う。個人的には、永遠の愛情みたいな限りなく難しいものを口だけで本心から信じられるやつはイカれてると思ってるから、互いのためだけに生きて毎日誓い合って、もしも永遠を信じられなくなったら永遠であるうちに終わるくらい歪んでいていい。

 

 

 

トワ√でエナが語った中に興味深い考えがあった。どこからが人なのか。確かに切り離した手と切り離された手以外なら、後者こそ本体だと思うけれど、例えば火葬後の骨を故人だと思って大事にするように、土葬した上に咲いた花を故人と重ねて慈しむように、時には理屈を超えて人が存在することがあるのではないか。要は受け入れ方の話で、たとえドールが過去を持たなくても、姿かたちが生前とは違っても、なんなら一度自我が消えたって、同じを手繰り寄せて信じることが出来るならば、人はどのように変化しても存在することができるのだ。エナ√終盤で、主人公がエナがエナであることを信じられなかったのは変化を受け入れられなかったからだ。

 

 

 

このテキストに出会えただけでもやる価値はあった。もちろんそれだけではなくって、天音√の幼い天音を珠璃が背負っているCGもめちゃくちゃ好き。人間であるみーちゃんや天音は恋愛関係中でも通じ合いたい気持ちを忘れないまま思い遣るに留めていたけれど、ドール相手には思い遣るから一歩踏み出した関係性を築いているのも、程よさがあって好きだ。エナ√もトワ√もこれ以上は言わずもがな良かった。全体的に近江谷作品の解像度が上がる作品だったと思う。やり直したい作品が増えたなぁ。(やるとは言っていないけれど)