退廃的文明開化

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『BLACK SHEEP TOWN』感想

まずは素敵な物語に感謝を。登場人物たちの心中に触れたり、推測して共感したり理解した気になれる時が一番、物語を読んで充実していると感じる。そのため数多の登場人物たちの内面を違和感なく描写しながら、彼・彼女らや街を取り巻く事件を進行させた筆力は心から素晴らしいと思った。路地くんキミ、荒事より小説家のが向いているよ?

 

最後の最後まで褒めちぎるつもりでこの作品を読んでいたが、あのラストシーンは非常に違和感を覚えた。松子の記憶が蘇ったことも、亮が生き返ったこともイマイチ納得ができず不出来なパッチワークのような印象を受けてしまう。

 

確かに機材は用意できるかもしれない。死に際に不死化させつつ体組織を切り分けて培養液に浸からせてからネオ・ローズを打ち込んで死体を偽装すれば周囲の目をごまかすことも可能だろう。実行犯はボニー&クライドで2発撃たれたのは片方はネオ・ローズだから。なんて考えることもできる。しかし、特殊タイプBの培養や再生についての知識と経験を持った汐と亮は既に死んでいる。エリーには生物学的・薬学的な知識などないだろう。そもそもあの短時間でどうやって不死化させたのか。過程を考えれば考えるほど疑問が拭えない。どうにもご都合主義的で降って湧いたかのような奇跡じみている。

 

 

そもそも本作は不条理を不条理のまま、やるせなさや無常観にひと匙の幸福を加えて、極めて順当な不幸を描いてきたのではなかったか。私なんかは何度予想が外れることを祈ったか分からない。それなのに、ちゃぶ台を返すがごとく突発的に提示されたハッピーエンドが余りにもチープで困惑したのだ。美味しいものを食べて口当たりも味も確かに良かったのに、嚥下した後に何故か胃や食道から不快感にも似た独特の香りが漂ってきたみたいな、なんとも言えない気持ちになって、これまでの悲劇も喜劇的で嘘くさく見えた。今での不幸はなんだったのかと、奇しくも作中にてその甘えっぷりに唯一辟易したシウと同じようなことを思ったわけだ。

 

 

だがこれは路地の書いた小説であり、事実を正確に描写しているわけではないことを思い返して得心が行った。なるほど、作中にて物語を綴る役割を持つ路地が「俺が一人で見に行ったら、謝亮は死んでいるよきっと。でも、誰よりも彼と会いたいと願っているあんたと一緒なら、一番良い形で生きているような気がするんだ」と言っていたのは一種のメタで、物語的な補強なのだろう。記憶を取り戻した松子がいて、亮再生の可能性を持った唯一の存在が孤児院を営んでいるという要素を繋ぎ合わせることで感動的な再開の可能性を残したのではないか。運命の荒波に飲み込まれて引き離された愛し合う二人が全てから解放された後くらいは幸せになってもいいじゃないか、という望みなのであれば受け入れられる気がする。

 

ここから見えたのは、彼・彼女らの幸せを願っているはずなのに、”奇跡的な結末を解釈の余地のない事実のように描写された途端、素直に受け入れられない。””幸せを求めて不幸せに死んでいった人たちがたくさんいるのに、必然性のない(あるいは後出しで必然性があるかのように振る舞って)幸福を得るのは何だかズルいように思えてしまう。”という、なんとも身勝手で歪んだ私の精神構造だ。

 

最後の最後に読者を巻き込み、メタを匂わせた踏み絵で黒い羊を炙り出さんとするかのような構図に作者の性格の悪さを感じつつも、被害妄想的な読解で自傷する方が悪い気もするし、そんな自分が嫌になる。それなのに私との思想の類似を見つけられたさくらのことが大好きだったりする。ぐちゃぐちゃで矛盾している。結局物語から自己観察的な面白さを見出して満足しているのだから、作者の術中にハマったのだとしてもプレイして良かったなと素直に思う。爽やかな虚しさを感じた良い作品だった。

 

 

追記

上記とは打って変わって、松子や亮が不死者として復活を果たしたことを前提とした上での別解釈をする。
本作や本稿では便宜上不死と形容しているが、コシチェイすら肉体や精神のバランスが取れず崩壊へと向かっていったのだから、死を完全に克服したわけではないのは明らかである。そもそも死に方も明示されている。よって、実際的には肉体的な寿命が長く、再生力に長けていて死ににくいといったところか。ただし、松子の例を見るに不死性は遺伝するし、ローズクラブ、路地、灰上のように比較的安易に不死者は増やせる。

 

そしてY地区では、亮の奮闘も虚しく抗争は止まず死は未だ変わらず隣にある。このノンフィクション小説が出版された暁には不死者の存在は詳らかになるだろう。すると、技術と資金と非人道的な価値観を持った裏社会を筆頭に組織的な不死化が起こることは想像に難くない。つまり、Y地区は長期的に見て不死者の街となる可能性がある。

 

現実でも私達を支える日進月歩の医療技術は、便宜的な意味における不死性の獲得へと向かっている。死生観は過渡期を迎えたのだ。相反する社会的立場や環境、病状に生きたかった生を潰された主人公が、再生によって不治の病すら克服し、彼を縛り付けていた社会的立場や環境からも解放されるエンディングは、旧態的な価値観との決別であり新時代幕開けのメタファーとも言える。一方で、死に方を選べた初代と死に方を選ばせてもらえなかったその息子の急速な変化には、やがて病的なまでの生への信仰に死の自由は殺されてしまうのではないかという危うさを覚える。

 

様々な登場人物を通じて死に依る救いと有意味な生の希求を描きながらも死ねない存在を産み出した本作は、瀬戸口氏が見据える次代の死生観に対応した作品なのかもしれない。