退廃的文明開化

気ままにノベルゲームの感想を投稿します。

『霞外籠逗留記』感想

良質な物語に触れた時、物語への想いが溢れて零れ落ちるような気持ちになることがある。それは『魔女こいにっき』にて語られたように、物語が読み手を介して繁殖していくものであることの証左で、物語に孕まされたかのように、物語への感想が脳内に満ちたり、その意義や意図の推察をしたり、登場人物たちのその後を想像せずにはいられない。どうにも私はそうしたある種の強制力を有している作品こそ評価する傾向にあるようだ。せっかく宿した命なのだから、出来る限り生み出しておきたいと感じるのは本能的な、恰も母性と呼べる感慨であり、全く感想を書かない諸兄姉は感動の浸出を一体どのようにして処理しているのか。(中絶という熟字が脳裏を掠め、下卑た喩えに内省するものの)気になるところではある。くどくど語ったが、とどのつまり、こうして感想を書いている霞外籠逗留記は面白かったということだ。

 

この物語を読むにあたって、幾つもの視点がある。文学的素養を持った人間ならば神話や近現代文学等の伝統的なお噺との関連を見るだろうし、民俗学・人類学的な視点から伝奇や慣習との関連を見ることもあるだろう。会話劇や展開の妙の中から自己に根差した感動を見出すものもいれば、ノベルゲームとしての外骨格を評価し、所謂雰囲気を楽しんだ層もいるだろう。プラスイメージを列挙したが無論逆も然り。私の思いとは別にマイナス評価をしようと思えば、気取った文章で読みづらいだの、冗長で分かりづらいだの、そもそもヒロインに萌えないだの、イラストがエロゲっぽくないだの、いくらでもできそうな(というより事実多方で言われている)のがこのゲームだ。実際私も読むのにかなり苦戦し、言うほど活字が好きじゃないのかもしれないと若干ショックを受けたものだが、そんなことを語るつもりは毛頭ないし、文学的素養も民俗学・人類学的知見も当然皆無なので、そんなことを語るつもりもまた、産毛の先ほどもない。ここで語るのは私がこの作品を読み何を感じたか。ただそれだけだ。悲しいことに子は親を選べず、親もまた子を選べないのだ。いや今回の比喩においてはせめて親側は子を選べよと思わなくもないが、今回は母性の勝利である。と開き直ったところで、本題へと移行していきたい。

 

 

本作の基本構造は一見すると一般的なノベルゲームと大差ない。令嬢・司書・琵琶法師のヒロイン3名の個別ルートをクリアしたのち、所謂トゥルーエンド的な位置づけとなるタイトル画面に追加される渡し守の物語を読むことで完結する。ヒロインとの個別ルートはどれも過程にこそ差はあれど、過去との決別を描いて未来への希望を物語的に暗示した後、大河の上にて渡し守が深い情愛を込めて主人公を名前で呼ぶところで終わる。一部以外同じテクストで締めくくる点は多くは見ない構造で、個別ルートにて終ぞ秘められた主人公の過去や失われた記憶への興味を引き立てると同時に真相はトゥルーエンドにて!と言わんばかりだ。反してトゥルーエンドに価する渡し守の物語では「どうして、またこの旅籠の物語を、繰り返そうとなさったのか――」「女たちと、そんだけの終わりを選んで。……なぜ旦那は繰り返すんです」と水を差してくる。他にも、結果的には渡し守が化けた姿ではあるが、過去を手繰る手掛かりとなる少女を追いかけようとする主人公に対して、ヒロインは「行かないで……!」「やだ……。厭です。どうして、ねえどうして――」と哀願する。一見すると構造的には一般的なノベルゲームなだけに、本作に限らずトゥルーエンドを読む行為そのものが、真相を究明したい乃至は物語を繙きたいという身勝手な欲求からヒロインの愛慕を無情にも切り捨てることである、と咎められた気になって痛かった。

 

 

また、ノベルゲームの特徴的なシステムの一つにマルチエンディングがあるが、本作においては3名のヒロインすらも「旅籠の女たちは全て、姉の心が仮託された、彼女のペルソナのそれぞれ異なる顕れだとも言えよう。」と語られてしまう。3つの物語と3つの物語に散発する謎を解明する1つの物語ではなく、それぞれ独立しているかのように見せかけた3つの物語を収斂し、ただ一人の女と主人公の物語を描いたのが本作であるのだ。つまり、ノベルゲームをノベルゲームとして”読み進める”ことでマルチエンディングという認識が根底から覆り、システムが反転する構造となっているとも言える。これらが、移り気で消費主義的なノベルゲームやユーザーへの痛烈なアンチテーゼのように感じてしまうのは、きっと穿ち過ぎなんだろうが、どうにも頭から離れない。

 

他にも本作では渡し守と主人公が実の姉弟という事実が非常に高い壁となって二人の情念や色事を阻害する。文化的あるいは心理的インセスト・タブーが存在しながら、インモラルではあるものの許されざる唾棄すべき悪行としては描かれないヌルいノベルゲームに慣れた私からすると、正直何故そこまで忌避するのかと不思議に思うが、それこそが非難の渦中であろう。社会的規範から逸脱しながら生きていくための明確なビジョンもないまま情交に及ぶような、よくあるノベルゲームに毒されている一方で、所詮ゲームの中の出来事と高を括っている不純を突き付けられた気になり、きまりが悪い。マルチエンディングも上記の不純も、ヒロインたちの情の深さにまるきり釣り合っていない不実としか言いようがなく、根本には実在しないキャラクターへの軽蔑的な眼差しが染み付いているのではないかと不安になる。希氏がそこまで考えているかは知らないし己がネガティブゆえの被害妄想かもしれないが、ヒロインたちとの距離感を今一度見つめなおしていきたいと思わせた。

 

 

一人勝手に打ちのめされた件は一先ず今後私が取り組む宿題にするとして、今は本作の好きな点を語っていきたい。何よりも強く惹かれたのは渡し守たる姉のどこまでも深い愛情である。単なる狂気的な偏愛にも思えるが、彼女はそういう生き物なのだと考えるほうがいくらか理解が及びやすい。みづはのことはしばしば妖異として扱っているし(そもそも名前からして故意的だ)、心が仮託された存在である琵琶法師も司書も魍魎の類だ。つまりは、作中において言葉や表現を変えながらも幾度となく語られた"人間よりも人外のほうが情が深く健気で一途で純粋な一面を持つ"という分かりやすい例なのだろう。更に本作で頻出する「内圧」。特に令嬢や渡し守に使われることが多かったが、心の無限大を思い出させる良い表現だと思う。彼女が少女のみづは、大人になったみづは、渡し守に化身したみづはに分かたれていることも、そのそれぞれとの連関を想起させる琵琶法師、令嬢、司書の3人のヒロインがいたことも、心の複雑怪奇と深淵を思わせる。

 

 

連関を想起するのならば、逆に各個別ルートの展開や描かれたヒロイン像からみづは自身の心中も、ある程度類推できるのではないか。例えば琵琶法師√、彼女は特に純真で無邪気だが、生きがいとも言える琵琶がある日突然弾けなくなり、欲深な大人たちの悪意を理不尽にぶつけられ、原初的な唯一つの目的を達成するためだけのモノに変じようとしていたところを決死の説得によって引き戻し、ただ人として共にあることの幸福を噛み締める話である。こうして概略を見ると、唐突な身内の不幸から少女時代を捨て、大切な弟との温かな交流の機会を喪失し、欲深な親戚に翻弄されないよう「他の大人が文句のつけられない、ちゃんとした人間にならないといけない」という唯一つの目的を達成するためだけの存在に規定したみづはとの結び付きが伺える。しからば、結尾にはただ共にいられるだけで幸福だった少女時代への憧憬からくる退行欲求のような願望が反映されていると考えるのが妥当だろう。

 

 

次に令嬢√、彼女は生まれや環境によるしがらみに強固な怒りを抱えている。不器用な愛情故に相互に誤解しあい擦れ違う流れだった。守りたいがために監禁するも害そうとしていると誤解されて伝わらない。ニゴリの暗躍や渡し守の救いの手等、紆余曲折あり先祖の妄執が原因ですれ違っていることを理解し、主人公が旅をする自由を束縛しようとするニゴリを滅ぼす。その際に令嬢も共に闇の底へと飲み込まれかけるが、一人ではいかせまいと主人公も飛び込み、闇の中で固く抱擁をして共に墜落する。これを琵琶法師√と同様の読み方をするならば令嬢と大人になったみづはの結び付きは瞭然ではなかろうか。外因から愛情や好意は歪み、誤解が誤解を招き、潔癖で真面目過ぎて姉への強烈な劣等感を持つ清修を形作る檻となる。守りたいがために出られない空間に閉じ込めて鎖や錠で動きを制限した上で厚遇するという両極端な過剰さに何ともあの姉らしさを感じるが、何よりも、主人公の旅をする自由(≒将来の選択肢)を束縛するニゴリを滅ぼす際に令嬢も墜ちるというのが、本編を読了した今にして思えば非常に示唆的だ。結尾には制御ができないほど巨大な質量をもった愛情を受け入れて共に闇へと墜落してほしいというみづはの望みが反映されているのだろう。もっと言えば令嬢と主人公が抱擁しあいながら墜落したその先が琵琶法師の住処というのも、しがらみを捨てて清修と抱き合うことが出来れば子供時代に戻れるのに、というみづはの甘やかな願望の顕れではなかろうか。

 

 

最後に司書√、彼女は人外の鬼女で、一度愛したならば殺さずにはいられないという強烈な衝動を持って生まれた生き物である。愛し合う過程の中で、生来の性質ゆえに身を引こうとする鬼女を追い求め、人のまま彼女と共にありたいと願う主人公が、渡し守に先導されて飢渇状態を体感することで司書の本質を知り、同じく人外へと変質することで悠久の交歓を得る。もはや論ずるまでもないが渡し守の物語と同質で、みづは自身「私は、お前の全てを自分のものにしないと、きっと生きていかれないよ、もう」「お前の時間、お前の人生。お前がこれから出会うでしょう、様々なことと、人たちーー」「そういうものからお前を切り離して、私だけのものにしないと、もう私は生きていけそうにない」と口述している。司書√の結尾についても、渡し守を抱いたその後、一人沈んだみづはを追いかけて水底にて再会し抱擁するシーンを見れば、彼女の願望そのものであることが理解できる。

 

みづはの心を類推するところから始めたが、清修には人としての幸せをつかんでほしいという気持ちもまた本当なのは間違いない。人外は健気なのだ。他方で、同質の存在として同じ視座を持ってほしいという気持ちもまた本当なのだろう。心とは斯様に難解で度し難いものであるという思想は、純愛を謳いながらも薄っぺらな感情表現や状況記述しか為さない凡百の作品にて提示される見栄えがいいだけの価値観よりも、よっぽど馴染んで受け入れやすい。

 

 

作中に「霞の外の旅籠」という表現が度々出るように、夢幻の世界ではなく現実世界を霞と表現するのは面白いと思う。我々が生きる世界は未来とか可能性とか綺麗な言葉で飾られがちだが、モヤのように曖昧でぼんやりとしたもののように思えて、世界の美しさをただ語られても相応の説得力がないと響かなくなってしまった。渡し守の物語の終盤で現実へと帰還するのか、二人きりの水底へと沈むのかを選択するが、そんな私からすると現実への帰還には結果的な幸不幸は置いといて、どうにも彼女たちが愛し合えるイメージが湧かない。他者の存在も然り、みづはが規定してしまった自己も然り。内外のあらゆる要因を乗り越えられない気がする。反対に水底へと沈むほうは、女陰のような穴へと入り、胎内胴という名の子宮を冠した洞窟を通り、羊水と表現された水に沈むことから生まれ変わりを想像する。(なんか花散谷でも似たようなことがあった気がする。)その結果の人生が幸福かまでは知る由もないが、度し難い心が救われたのはこちらではないかと思う。学がないので分からないけれど、巻末歌にある「彼岸無き日の 輪廻」はそういう意味だろうか?

 

私は多事多難の末に心の中に絶対不変の黄金の価値を見出すことに強い羨望を感じている。それは私自身に何よりも優先できる絶対の価値が存在しないせいもあるし、(浅ましさに辟易するので、あまり想像したくはないが)誰かの絶対不変の価値の一端に自身が関与したいという限定的な承認欲求もあるかもしれない。互いが互いの黄金であることを信頼できるのは一体どれほど幸福か。ヒロインの深情けに惹かれるのはショーケースに飾られた絶対に手が出ないほど高価なおもちゃを眺める少年の心境と似たようなものなのかもしれない。私はノベルゲームを介してそれらしい代替品を享受し満足した気になるが、所詮は鍍金で覆われただけのありふれたインゴットである(これは私の資質の問題だ)。物語を読み進めることで姉の一部分を持つ代替じみた令嬢・司書・琵琶法師での誤魔化しを許さない状況を作り上げたのは驚異的な構造だと感じるのと併せて、物量で埋めようとする己の哀れさが際立つ。鍍金を集めればいつか黄金になるだろうか。なるといいな。

 

 

さて、本稿では特に渡し守の物語に着目したことで彼女たちの魅力が損なわれたかのような書き方をしたが、それはそれとして決して彼女たちがみづはに劣っているとは思っていないことは補足したい。司書√は大好きだし、令嬢をおんぶするシーンなどは最高だった。他にも「一度抱いた女の子とそうでない人と、肌の違いもわかりませんか!?」とキレるシーンも好きだ。琵琶法師のあの無垢な明るさにも強く惹かれてしまう。渡し守の物語を読まなくても十分に面白いのが本作だと思っている。様々な楽しみ方ができるうちの一つとして、こんな読み方をした人外がいることを、どうか覚えていただけると幸いである。