退廃的文明開化

気ままにノベルゲームの感想を投稿します。

『腐り姫』考察




0.あらすじ



父親と妹が怪死を遂げ、記憶喪失となった主人公は、義母に連れられ、故郷の町へと戻る。
そこで主人公は蔵女(くらめ)と呼ばれる、深紅の着物の少女と出逢う。

少女は自分の妹に瓜二つだった。

取り巻く家族や友人たちは、うわべでは彼の回復を望みながらも、罪の意識を心に潜ませている。
蔵女はそんな人々の隙に取り入り、甘美な肉欲と狂気を与え、身も心も崩壊させていく。

記憶と現実の境界が揺らぎ、喪失感と、蘇る恐怖との狭間に葛藤しながら、
やがて全ての記憶を取り戻し、赤い雪が降り積もるなか、世界が死の静寂に包まれるまでの4日間。

※公式サイト引用

 

1.はじめに




腐り姫をプレイ中、幾度となく感じたことはこの物語の難解さである。様々なテーマを内包し、複雑に絡み合い、腐り姫という一つの作品を作り上げている。ここでは物語構造の基盤そのものについて触れたい。先にも述べたように、様々なテーマを内包し、複雑に絡み合っているのが腐り姫である。複数の生きた物語を統合させ、一つに成長した『腐り姫』は確かに唯一無二だ。しかしテーマを内包していくうえで、先達が築き上げてきたそれぞれのテーマにおける「様式」が顕在化しているように見えてならないのである。要するに、僕が行う試みは、腐り姫と各テーマにおける様式の類似点を探し(あるいは肉付けし)腐り姫という物語の美しさについて言及する、ということだ。


2.とうかんもりとホラーの様式





元来、土着信仰や伝承とは人々のそばに存在する恐怖への信仰や逃避の手段が物語化したものであり、そこに現実との区別はなかった。
しかし都市化が進み、人々が暗闇を克服したことが、現実におけるそうした物語の存在を難しくした。そんな時代背景からの物語に対する変容の要請が、現代の世に生きる民話・土着信仰に挙げられる特徴の一つである「異界との接触」を産み出したわけだ。宮田登が著書『妖怪の民俗学』において、妖怪が出現する場所は「境界」であると指摘したように、怪異は暗闇を克服した現代には存在し得ないため、存在し得る世界への接続が必要になるのだ。


エロゲとしての伝奇作品は多く存在するが、その構造を振り返ってみると実に現代的であることが分かる。『水月』『黄昏のシンセミア』『SNOW』など他の伝奇モノでは、【作品内における伝説、伝承、民話、土着信仰で語られる対象】と【人(多くはヒロインや主人公)との類似(生まれ変わりや直系の子孫)】から強制的に異界とゲーム内の現実が繋がり、混じり合い、物語が蘇るという手続きを踏む様式を取る。こうすることで現実では起こりえない怪異を呼ぶための接続を行っているのだ。


本作においても同様である。霧深い湖と山々と森に囲まれた「とうかんもり」という閉鎖的終着点は我々のノスタルジーを刺激し、怪異の起こりうる舞台たる「現実」と「異界」の境界を見事に演出している。また、『水月』と同じく記憶を失った主人公というアイデンティティを強制的に排除された(あるいは薄められた)存在によって、疑似的に物語内での類似を生むことができるのも特徴の一つだろう。腐り姫では主人公が、境界である「とうかんもり」へ訪れ、妹である「樹里」と伝承として語られる「蔵女」の類似(その実の一致)を認識することで現実と異界との接続を行い非現実を呼び起こしたのだ。

以上のような異界と現実を繋ぐという伝奇作品における特徴は当然エロゲに限らず、様々な作品で見られる。例えば1998年に公開された和ホラーの名作でもあり金字塔でもある『リング』では「呪われたビデオ」を見ることで現実と異界が混じりあい、呪われた物語が蘇る。「現実」には起こりえない怪異を起こすため、それが起こり得る世界へと変容させる手続きが「呪われたビデオを見ること」であるのだ。ある日突然貞子なる悪霊が目の前に現れるのではなく、貞子を現実に呼び起こすための正しい手続きを行うという条件を付与しているわけだ。余談だが、テレビの中を「異界」に位置づける魅せ方は非常に興味深い。テレビは叩けば直る時代、科学技術の発展速度に市民の知識が置いていかれたことを象徴しているのではないだろうか。裏道や山に存在した怪異の温床たる暗闇が、機械の中に生まれたのだ。

閑話休題。更にこの作品、オチでは謎をすべて明示せず「物語は続く・・・」といったような、どうもスッキリしないやり口をとる。そういった意味では腐り姫の謎を残したままにするあのオチすらも、まさにインモラル・ホラーADVに相応しい構成といえる。
…狐坂って誰やねん。


3.腐り姫と神話における様式




『日本人の〈原罪〉』第二章『古事記』神話への道案内にて橋本雅之は、『古事記』上巻の神話は「生→象徴的な死→再生」の連続によって展開していくのであり、神々は象徴的な死という試練を何度もくぐり抜け再生を果たし偉大な神へと昇華するのだと分析している。こうした特徴と腐り姫の符合は非常に分かりやすい。「生→象徴的な死→再生」のサイクルも腐り姫ウロボロス的円環構造と一致しているし、五樹は作中で赤い雪へと変えられる象徴的な死を繰り返し、記憶を取り戻すための試練を何度もくぐり抜けることで、滅びの神へと昇華するからである。まさしく日本的神話の様式を準えた物語構成であると言えるだろう。




他にも神話といえば作中でミノス王の迷宮について語られるシーンがあった。これは恐らく抜け出せないウロボロス的円環構造に支配された時間のループを一度入ったら出られないミノス王の迷宮に例えたのであろう。

ギリシア神話によれば、英雄時代にクレタ島を中心に海洋にミノス王という王が君臨していたという。ミノス王はギリシアの最初に現れる支配者で多くの伝説が残っている。ミノス王は立法者としてもすぐれていたが、その后が、海神ポセイドンが王に送った美しい牡牛とまじわってミノタウロスという怪物を生んだ。その頭は牛、体は人間であったという。困った王はアテネの名匠ダイダロスに命じて、いったん入ったら出られないような迷宮をつくらせ、ミノタウロスをその奥に住まわせることにした。ミノスの息子の一人がアテネで殺されたことからアテネと戦争になり、アテネは九年ごとに七人の若者と七人の娘をミノタウロスの餌食としてクレタに送らねばならなくなった。アテネの王子テーセウスはみずから志願してこのいけにえの一行に加わり、ミノス王の娘アリアドネと親しくなって糸玉をもらい、迷宮の奥まで進んでミノタウロスを殺し、糸をたよりに出口に戻ることができた。テーセウスはアリアドネをつれてアテネに戻った。ミノタウロスの幽閉された迷宮をラビリントスといったことから、英語のlabyrinth(迷宮)という語が生まれた。エヴァンスが発掘したクノッソスの宮殿遺跡がこの迷宮でり、ミノス王も実在の王であった可能性が高い。

<村川堅太郎ら『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫


この神話の最後には、奥に潜むミノタウロスを殺し脱出したが、腐り姫では互いに消滅することを選んだ。ミノス王の迷宮に倣えば迷宮にとらわれた自身もミノタウロスとなってしまったからだ。ところで、西洋における半人半牛といえばミノタウロスだが、日本における半人半牛は「牛頭」あるいは「件」である。牛頭は特に語ることが見当たらなかったのでここでは置いておくが、この「件」がまた面白い。みんな大好きWikipediaによれば「件」とは「牛から生まれ、人間の言葉を話すとされている。生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされている。」とある。つまりは未来を予知する力を持っていた朱音と蔵女ウロボロス的円環構造に支配された世界で一致していることを示唆する伏線でもあったということなのだろう。ここで謎があるとすれば、神と妖怪(怪物)の区分の違いについてだが、こちらに関する詳しい考察は良く分からないのでパスする。何か意見あればぜひとも教えてほしい。


4.円環する四日間と盆の関連




ループする期間は8月11日から8月14日の四日間である。読み込みが足りないため、とうかんもりにおける灯篭流しが何日に行われるのかハッキリとは分からないが、この四日間の最後(14日)、もしくはその二日後以内(15~16日)に灯篭流しが行われることは恐らく間違いないだろう。何故かといえば、そもそも灯篭流しとは「死者の魂を弔って灯籠(灯篭)やお盆の供え物を海や川に流す日本の行事」であり、要はお盆に行われる死者を弔う行事の一種であるわけだ。それを踏まえれば、とうかんもりにおける灯篭流しもお盆の期間中である8月14日から8月16日のいずれかだろうと推測できるからである。現在では盆とは死者を呼び、もてなして、死者を送る行事である。この時期に記憶をなくした「死者」である五樹が「とうかんもり」へとやってきたことは、こうした伝統行事とまったくの無関係ではないだろう。




さて、盆の起源はもとをただせば仏教行事であるといわれているが、日本に伝わってから仏教行事としての「仏」を祭る盆から、民俗行事である「ホトケ(死者や先祖)」を祭る盆へと変遷したそうだ。このあたりの詳しい部分は僕には分からないが、ここでは、ともかくそういうことがあったため今の形になったと理解する。かの有名な民俗学者柳田国男は著作『先祖の話』にて、盆(瓫)は元々ホトキと呼ばれ、食物を入れて神霊に供える器、祭りの容器であったことや、中世以前は「盆」という漢字が使われておらず、そのほとんどが「瓫」であったことを述べている。また、蒲池勢至の著作『お盆の話』では「中世の盆行事のなかに「拝瓫」という表現が出てきます。食物を瓫に入れて供えるという行為のことでした」とある。加えて「歴史的には十四日が拝瓫の日」とも述べられている。つまり元来盆とはその名の通り14日に瓫(器)という容器に食物を入れて神霊に供える行事でもあったと換言できるわけだ。

本作では14日には必ず人々の思いを赤い雪へと変え、世界は滅びを迎える。また、とうかんもりにおける盆行事とは主に、14日から16日の間に願いを込めて灯篭を流す行事のことである。(先述した拝瓫の時期からやはり14日である可能性が濃厚ではあるが断言はできない。)元来の盆行事から読み取れるのは、とうかんもりにおいて【盆(器)】とは【灯篭】であり、【食物】とは蔵女のいうところの【人の切なくも美しい想い】であり、【神霊】は【狐坂】であるということだろう。人間は灯篭に切なくも美しい想いを込め、その想いを糧とする狐坂へと捧げるのだ。盆の上に赤い願いを灯し、神霊に捧げる行事こそが、とうかんもりにおける盆である。




ここで、一般的には先祖などの死者の魂を弔って灯篭を流す行事であるにもかかわらず、とうかんもりにおいては願い事をくべて流すように変化した(あるいは死者の魂を弔って灯篭を流す行事に変化しなかった)【灯篭流し】と、願い事を叶える代わりに願いを持った人間を腐らせ零れた想いを赤い雪へと変えて昇華させるという【腐り姫の伝承】との奇妙な符合も見逃してはならない。どちらも願いを川や天といった人間の住む【内】の先にある境界の【外】へと送っているのだ。
これは大した根拠のない推測ではあるが、神への信仰が減少し、神霊を祭る行事が形骸化していく昨今において、より効率的かつ高濃度な「想い」を献上するための、ある種システムとして「蔵女」や「五樹」が存在しているのかもしれない。平たく言えば【盆】は【とうかんもり】そのものであり、【食物】は【人が腐って零れた想い(赤い雪)】であるということだ。想いを赤い雪へと変えて埋め尽くした後に時の流れから切り離されたとうかんもりそのものを神霊に捧げるのが「蔵女」や「五樹」という存在ではないだろうか(上のCGを見るにとうかんもりが赤い雪に埋め尽くされた後に現れる弧坂と灯篭には強い関連性があると推測できる)。少なくとも、もとは人々の信仰としての民俗行事として始まったであろうとうかんもりにおける灯篭流しと腐り姫というシステムが共に「盆」という行事の範疇にあると言えるのは偶然とは言えないだろう。以上のことから多くの絡み合うテーマについて【現代的な盆行事】と【中世の盆行事】を基盤にして描いた作品が『腐り姫』ともいえる。


※追記
ふと気になり鳥居について調べてみると、弧坂の後ろにある鳥居は明神系の一つであり伏見稲荷大社で見られる「千本鳥居」という種類だということが分かった。その名の通り幾多もの鳥居を重ねた形である。鳥居とは現世と神の坐す幽界の境界であり、その数は願いが「通るよう祈る」あるいは「通った」ことの象徴でもあるそうだ。つまりは、祈るため鳥居を増やし、願いが通るたび鳥居を増やすのが千本鳥居の特徴である。盆行事による大量の祈りと腐り姫による数多の成就があるとうかんもりにおいて、上述の考察を補強してくれる現実と物語の類似となるのではないだろうか。
神の降臨地であるお山の入口に当たり,現世から神の坐す幽界への関門として多くの鳥居が建てられたと考えられています。鳥居が二筋の参道に,左右二本併行して立ち並べられた理由は不明ですが,おそらく両部思想による金胎二界を表したものではないかといわれています。これらの鳥居は,江戸~明治時代に参拝者の奉納により,建てられはじめました。鳥居を献ずることによって,願いが「通る」という語呂合わせから生まれた信仰だとされており,願いが「通る」たびに,鳥居を大きなものに変えて奉納する風習もあります。
レファレンス協同データベースより引用>

5.さいごに


脳がつかれたのでこのあたりで〆。これら上述した一致(あるいはその思い込み)が物語的な面白さを担っているという主張をしているのではなく、あくまで物語構造の基幹を評価し、それが世界観への説得力を担保している、といった認識での考察あることを理解していただけると幸いである。しかしあまりにも書くことが多すぎて(書けるとは言ってない)何を書くか迷ったが、恐らく長く愛されている本作であっても、あまり触れられていないであろうことに着目して書いてみたつもりである。当然、私の知識量では腐り姫に感じた思いを言語化するには足りないので、急ぎ図書館へと向かい本を借りて、グーグル先生を駆使して、ようやく書き上げることができた。そのため、あらゆる点で足りていない稚拙な内容であることは否めない。だが、本考察を通して伝えたいことは、誰にでも分かるたった一つの単純なことだ。それは、本考察を僕が大学時代に書いたどの論文よりも頑張って書いた。ということである。

・・・良く卒業できたな僕。