退廃的文明開化

気ままにノベルゲームの感想を投稿します。

『魔女こいにっき』感想



このゲームでは、様々な作中作を通して物語そのものの在り方を描いてくれたんじゃないかと思います。

時に人は現実に物語を見ます。物語の正体は想像ですから、現実のみならず、例えば歴史だって人の想像が付随すれば、それは物語になります。結果から過程や心情を想像することで歴史は、単なる事実の観測から変貌を遂げ、一つの物語になるわけです。

作中にて物語が『ありそうでどこにもない』とか『ドラゴン』などと表現されているのは想像と現実の完全一致がありえないからでしょう。

 







我々が想像する願望が現実へと顕現した時、人はしばしば「夢みたい」と形容します。そもそも現実の大半には想像の介入する余地がないからこそ、人は物語を求め夢見るのです。
けだし、Vtuberやアイドルに人が熱狂するのはそこに物語があるからです。彼・彼女らファンは彼・彼女たちの綴る物語を愛しているわけです。もっと言えば、勝手に想像を埋め込み物語を生み出すことすらもあります。

ですが、物語は常に自分の前だけに現れるわけではありません。そのことを端的に表したのが作中にて頻出した『私の好きな人が私を好きじゃない』です。アリスが愛されなくなったのは、彼女とジャバウォックの間に結婚以上の物語がなかったからに他なりません。








ぺこーらのことが好きでも、ぺこーらはクリスマスに配信しません。ぺこーらが好きなのは私ではないのです。







魔女こいにっきでは、END1で美しい物語の区切りを描きました。
現実はめでたしめでたしで終わらない。美しくない部分を過ぎ去っても道は続いていく。ふと立ち止まり、今いる場所から後ろを眺めてみると美しい道が見える。確かに今歩く道は昔ほど美しくないかもしれないが、そうした連続性を愛おしいと思えるなら、そこに新しい物語が生まれていく。
的な話だったと思っています。

終わりに向かうたくみくんとありす。ありすは、自分は無理でもたくみくんはまだ別の人との物語を続けられると言うが、ありすと共に物語を終わらせたいと願うたくみくんは、たとえ一瞬でも、いつ振り返ったとしても「幸せだった」と思える物語があったなら、それは永遠だよと伝えるわけです。

永遠を信じられる物語を共有することでオアシスへとたどり着くわけですが、これはあくまでハッピーエンドのその先であって、ハッピーエンドにも到達できなかった者には関わることのできない話です。







そんな恵まれたものたちが見るEND1への反逆がEND2で、そこまでクリアしてようやく魔女こいにっきは活動を終えます。END1クリア後にわざとらしく『全てのヒロインを攻略することが出来ました。』とタイトル画面に出てくるのが憎たらしい。

END2の後に表示されるのは主人公が好きで主人公を覚えていながらもハッピーエンドに到達できなかった子たちです。選ばれず、忘れられていったヒロインの呪詛が綴る物語が、物語が決して美しいだけのものではないことを示します。
ぺこーらに選ばれなかった私たちの傷は、ぺこーらとの過去をいくら振り返ったとしても決して癒されないのです。







ところで”ととの”の時も思ったんですが、作品から「ヒロインに対して私たちユーザーが誠実ではない。」という気づきを得る人たち。今何してるんですかね?ずっと同じヒロインを愛し続けているのか。あるいは一人一人を誠実に愛しているのか。
・・・誠実ってなんだ?

そこらへんに掃いて捨てるほどいるオタクくんが言う、ヒロインを消費するかのような無責任な言葉には正直いい気持ちはしないけれど、かといって自分が、物語が閉じれば何も語ってくれないヒロインを永遠に愛し続けるのは無理だと思ってしまう。
どんなに魅力的なヒロインでも、せいぜいが自分の中で大切にしまいたい思い出の女の子止まりで、あるヒロインに対してそうであることと、他のヒロインにも同種の気持ちを抱くことが、どうしても両立してしまう。そして同種の気持ちを抱くために、物語を読むことをやめることが出来ない。それは不誠実なのだろうか?

プレイヤーはプレイヤーで、ヒロインはヒロインで、主人公は主人公。一つの物語における読み手と語り手の距離は、永遠に埋まらなくていいんじゃないかなぁと思います。







着地点を探るのが難しくなってきましたが、END1では語り手としての物語の永遠。END2では読み手としての物語の永遠が語られました。それら二つのエンディングと、付随する物語を踏まえると、俯瞰的な目線でみた物語という概念の永遠性が浮かび上がってきます。

結局のところ、物語は読み手のモノではないのだから、それがどんなものであれ、読み手は好きに読み、好きに解釈しながら物語を受け止めていくしかない。それでも、もしも、ぺこーらがクリスマスに配信しなかったのが受け入れられないのであれば、自ら、自らが望む形で、物語を生めばいい。そうして物語が物語を生み、物語は永遠に続いていく。物語に出来の良し悪しはあっても、善悪はない。仮にあったとしてもそれは一義的なものではなく、読み手の解釈にゆだねられた結果によるものです。

魔女こいにっきが語ったのは、そんな物語のための物語だったのではないかと思いました。




と、いろいろ言ったんですけど、以下雑感として。




僕はアリスちゃんめちゃくちゃ好きです。
『終わった物語を、何度も何度も読み返すだけなんだね』とか
『なんでアリスは見つけてくれなかったの』とか
『二人で、一緒に、時計塔の歯車になってしまえばよかったんだ』とか
いちいち重たくて哀れで歪んでて好き。






零ちゃんはシンプルに可愛くて好き。うがーって顔で可愛く非難されたい。






美衣ちゃんは序盤はとっても可愛かったと思います(もっと言えばめがねっこだし見た目における最強を約束されてる)。個別ルートはなんだったんだあれ…。






個別ルートと言えば、主人公くんの性格が変わったりヒロインの性格が変わったりするの、物語だからで済まされるのズルいなと思います。複数ライターによる弊害に対する言い訳界において最強なのでは?スムーズに恋愛するための思考誘導も改変も可能な存在がいる時点で言動だけから同一性を感じようとするのは無理があるよね。



つれー思考誘導つれーわー









最後に、END2のあとオアシスはどうなったんだろうなぁってのが気になります。
言語化できない部分や本当にそうか?って悩む部分がいくつかあるので、VITA版でもう少し作品解釈がクリアになることを願ってます。


※付記
VITA版プレイして完全に理解した顔つきになりました。これはやはり物語のための物語で、物語の語り手への誘いだったのだなと。

※補足
忘れないうちに補足しておきたいんですが、我々がヒロインを物語に取り残すのではなく、ヒロインが我々を現実に取り残すのだと思っています。我々読み手は「めでたしめでたしだけが閉じ込められた物語」を主人公の視点で観測することしかできず、その後に続いていくであろう道を観測することは出来ないからです。

ただ、そもそも論として、ヒロインが好きなのはエロゲプレイヤーではなくエロゲの中の主人公ですから。もしヒロインがプレイヤーの存在を知るのであれば、プレイヤーに対して"主人公くんを操っていろんなヒロインのもとへ行かせること"についての怒りはあってもおかしくないでしょうが、「私を愛しているといったのに、プレイヤーはどうしてほかのヒロインのもとに行くのか」と怒ることはないでしょう。だから例の発売一ヶ月後ボイスにある「あなたは帰っていいの。あなたはいらない。」ってそれはそうなんですよね。我々は主人公の視点を借りるプレイヤーであって、ヒロインが愛した主人公ではないのですから。

作中でも読み手たるアリスは取り残されて、語り手であるジャバウォックは先へ進む。我々読み手に出来るのは閉じ込められた物語を永遠に繰り返すか、語り手となり新たに物語を綴るかしかないのです。