退廃的文明開化

気ままにノベルゲームの感想を投稿します。

『夜巡る、ボクらの迷子教室』りこルート感想





1.はじめに


正直に言ってりこルートは、はやてルートやきなルートとは別格の出来栄えだったと感じている。
それはあくまでも”私の中で”という枕詞がつくことは敢えて言うまでもないだろうが、つい先日プレイしたばかりの作品で感じたこととも合致する考え方が提示されたり、自分にとってひどく馴染みのある考え方を見つけられたからそう感じたのもある。

だが、それだけでなく、大変に背徳的で禁忌的でありながらも、禁忌に手を伸ばし掴んだ際の快楽とそこに手を伸ばすまでの心の動きが理解できてしまうほど繊細で情緒的に描かれているのも魅力の一つだと思っている。ただし、理性的な心では気持ち悪いと感じてしまった瞬間があったことは否めない。なので、そうした批判も非常に良く分かる。

 


ロリコンは病気です。クロスチャンネルでもそう言ってたから間違いない。
しかしその魅力は数多の歴史や文学作品が証明しており(多分)、さらに言えば現代的な価値観に基づけば禁忌であるからこそ惹かれてしまうという心の動きはもはや人間の原罪である。

話がそれてしまったが今回もそうした感動を拙い文章に書き起こすことで自身の備忘録としながらも、この文章を読む誰かに1割でも自分の感動を伝えられることが出来たら嬉しく思う。ほんとは綾子さんの上げ底の考え方とかとっても好きだったしその辺にも触れておきたかったのだけれども、正直文章がまとまる気がしなかったので一番良いと思った主人公とりこの関係性のみを語る。




以下はネタバレを多分に含むため、未プレイの方は注意ください。










2.りこの症状とその療法について






精神病理学的なことは全く畑違い(そもそも私に畑などないが)なので、ここでは作中解釈から話をしていけたらと思う。
初めて母親を見た時のエピソードからも、りこの心は母親から愛されたいという気持ちから始まったはずである。本来家族からの愛情は当たり前のように不自由なく与えられるべきものであるが、社会に生きて人に心がある以上どうしようもない場合もある。4年間母親から愛情を与えられることがなかったという事実が、初めて母親を見た時に母親だと認識できなかった事実が少女を苦しめ続ける。

作中にて幾度となく”何度も同じ記憶を思い出すのは、その時にそれだけ大きな何かを失ったからだ。”というような独白が出てきたが、りこが初めて母親と会ったときのことを何度も思い出し自分を責め続けるのは、初めて会った大切な瞬間で母親を母親として認識できなかったことによって”母子として触れ合う機会を失った”のと同時に、4年間母親から愛情を受けることが出来なかったという”過去から現在に至るまでに本来受けられたはずの愛情が喪失していた"ことを自覚してしまったからに他ならない。





祖母が倒れ、母親と二人きりになって、シングルマザーである母親に決して軽くない負担が掛かっていることも分かっていたはずである。そうした中で”母親に迷惑をかけたくない”気持ちと本人も自覚できていなかった”構ってもらうことで愛されていることを実感したい”という気持ちの板挟みが、少女の心では受け止めきれないほど多大なストレスとなっていたことは言うまでもないだろう。心というのは得てしてコインの裏表のような相反する感情が両立するのと同時に、その矛盾を消化できない限り大きなストレスを感じるものなのだから。

求められる姿を「えんぎ」して愛されようとする、自分の有用性を示そうとするのは本来義務教育も終えていないであろう少女が身に着ける処世術ではない。他者にとっても自己にとっても存在が認められる範囲で、母親に迷惑をかけないよう振る舞おうとしていても、一向に自立することは出来ず(小学生なのだから当たり前なのだが)大好きな母親が楽になることもない。どう足掻いても母親の負担になってしまう自己を肯定しきれなくなった結果、自分を無くして機械のように何も感じなくなれば母親に迷惑をかけずに済むという考えを深めた。そうしてりこは、熱さや寒さ、痛みなどを無くし、自分の存在を感じられなくなるよう「じっけん」し「えんぎ」し続けたのだ。





生きている実感を無くし機械になることはできないこと、心が傷ついたとしても修復すればもう一度嬉しいと思えるようになること。つまりは、りこの考え方が間違っていることを真正面から伝えて否定しながらも存在を認めることで、りこは母親と向き合う勇気を得る。お互いに好きであることは間違いないのに、愛されているという実感を得ることが出来なかったのはひとえにお互いがお互いを尊重しすぎていたからである。大切にするという行為は、度が過ぎれば心の距離となる。気を使った言葉や自分を殺した言い回しは相手の罪悪感となり届かなくなる。頑張りすぎて空回りし職を失ってしまった極限状態の母親に本音をぶつけられることで、りこはようやく誰よりも母親から愛されていたことを実感する。りこが傷つけば母親が誰よりも傷つき、そうして傷つけてしまったことでりこが更に傷つくという悪循環に気づいたことでようやく罪悪感もすべて飛び越えることができたのだ。愛情を受け入れて自身の心に浸透させることこそが、お互いがお互いを守ることだと理解する流れが本当に上手く描かれていたと思う。

こうして言葉にすれば当たり前のように思えることでも、りこの生い立ちや頼れる人もいないシングルマザーというままならない現実が視界を曇らせる。様々な不条理があり、様々な悲しみや苦しみがあるからこそ、本当に大切なものに人はなかなか気づくことができないのである。




りこの考える母親と自分のための幸福が互いの存在を意識せず

ただ僅かに存在を感じられることであるというのが、とても悲しい。

きっと母親のためを思って多くのことを諦めてきたのだろう。



3.りこの愛情について






上記の流れにも感嘆したが、りこルートの良かったところはそれだけにとどまらない。主人公も同様に母親から愛されていた実感を得られなかったことで自己を肯定できずにいた。主人公の分かりづらいところは、弱い心の上に強い自分を取り繕ってしまえるだけの器用さを持ってしまっていたことである。母親からもらった努力家であるという勲章は、いつしか自身の限界を超えて努力し続けなくてはならないという呪いへと転じる。強くなって母親から認められたいと願い続けた主人公は母親がいなくなったことで歯止めが利かなくなり、虚勢を張り続けながらも立ち止まることを許されなくなった。母親との融和を経たりこの姿を見て、愛されなかったことで傷ついた”自身の弱い心”とそれを守るために弱い他者を見捨てようとする”強くあろうとした自分”を自覚してしまった主人公も、その醜さから目を背けたくて、りこと同様に自分を無くそうとする。





愛情の表し方が”自分を無くして迷惑をかけないこと”だったりこが正しく愛情を伝えられるようになったのは、母親からの愛情を正しく受け取ることが出来たからだ。正しい受け取り方や向き合い方を主人公に教わったからだ。つまりはりこが主人公や母親から「してもらったこと」を主人公に返しているのである。誰よりも弱いのに親子関係を改善し、りこを救った主人公のため、愛情を与えることを選ぶ。母親の姿を見ているりこが与える愛情が軽いはずはないため、その選択はもはや人生の選択と言っても差し支えない。故にこれは立派な精神的自立であり、以前までのりこがどれほど願っても出来なかったことである。だからこそ、りこの心に迷いなどないことが理解でき、主人公も禁忌へと手を伸ばすことに抗えないことが分かる。少女が見せたこの美しい成長を否定することなど誰にもできないだろう。
また、これは”先生から何かを託されて、託された何かを解釈し、さらなる何かを願って生きていく”という、本ルートで示されていた教育の意義とも響き合うし、主人公がりこルート内にてはやてに対して伝えたことと全く同じことをしているのだ。それはつまり、りこが本当に優秀な生徒であったことと、主人公もまた弱い心ながらもきちんと先生であったことの証左である。タブーを超えて愛し合ったことも含めて全く無駄を感じさせない素晴らしい出来であった。




りこはこのやりとりを覚えていたんですね



本来私は倫理観が強いほうだと自負している。ロリへの性愛はもってのほかであり、いくらフィクションとはいえ抵抗感があったのだが、それらを超越するテキストにただただ感服した。
好きな展開や、好きなヒロインがいるゲームはままあるが、個別ルートを単体で見て価値観をひっくり返されたのは久しぶりだったためとても衝撃的だった。


4.最後に






本ルートでは最後に、自分を支える世界を夜空の星になぞらえて、それらの距離感や見え方を自由に変えながら観測できることを示した。だが、観測とはあることを知らなければそもそも出来ないものだ。月があることを知らなければ月を見つけることなどできないのである。つまり自分を支えるいちばん大切な世界という星が見つからなかった乃至は見つけることが出来なくなった状態を迷子と称して、宇宙に散らばる世界間を渡るための道しるべとなる星を見つける物語が本ルートであったのだと思っている。終盤語られた主人公の言う「呼びかけること」とは観測できる状態であることを、迷子たちに教えてあげる行為なのだ。

見えなくてもある「何か」を手繰り寄せること。苦手を克服したり、足音を聞いて安心を得たり、叱られることで愛されている実感を得たり、愛していると言われたりする。そうした時にふと、自身が世界に存在していることを再認する。他者の構成する世界に存在しても良いのだと感じる。心のある人間が本当の意味で”生きる”とは、世界を手繰り寄せることで自身の存在の確認作業を滞りなく実践できている状態を指すのかもしれない。