退廃的文明開化

気ままにノベルゲームの感想を投稿します。

『夢を確かめる』感想

物語は読み手の随意である。と僕は思っている。僕は僕の経験や思想を基に好きに物語を解釈することができるし、そういう読み方が好きだ。だから夢を確かめるは読み手賛歌であると思っている。

 

本作で幾度となく出てきた『終わるための様式美』である「了」「完」「おしまい」「終」は随意を不随意へと変容させる役割を持つ。概して物語の始めと終わりの基本構造は明示と暗示である。状況の明示、筋の明示、ジャンルの明示等々に未来の暗示、回答の暗示、次作の暗示等々。我々は明示されるがまま理解し、暗示されるがまま受け入れたり思慮してしまう。

 

選択型のノベルゲームにおいて、好ましい選択肢を選び、好ましい結末を「本筋」として捉えるのは恐らく誰もが行うことだろう。複数個存在する物語のエンディングで、どのエンディングが作者における正史なのかを知らないまま、随意的に物語を解釈するのだ。勿論EDやクレジットで意図を解釈できる場合もあるが、それが本当かどうかなんて製作者に聞かなければ分からない。BADENDなんかは存在したかもしれないIFと自然と考えている人が大半だろう。無論僕もそうだし、その是非を論じたいわけではない。問題は頭と体の存在する物語には随意を不随意へと変容させうる製作者側の恣意が存在する点である。別にBADENDが正史だと捉えたっていいのにEDやクレジットの有無で解釈を操作されてしまうのだ。

 

 

では首はどうか。精神と肉体の中間点。物語の始めと終わりの間。首の物語の説明において森溝が取り上げた芥川龍之介著”蜃気楼”。作中にて現象としての蜃気楼の発生原因を説明した際に挙げられた温度差は「読み手」と「書き手」に置き換えられる。”問題の対象外である芥川が職業婦人やモダンガールといった西欧化に伴う女性の社会進出への警鐘と対抗を答えの出ていない疑問として、曖昧な形で蜃気楼という作品に残した。”という論は非常に見事で読み応えのあるものだったが、問題の当事者とアウトサイダーとの立ち位置の違いが温度差を生み、それに依って発生する幻覚めいた蜃気楼的問題に対して「公」でない「私」の解釈で安心する。という構造は「読み手」と「書き手」の随意抗争そのままであるのではないだろうか。

 

 

事実、散々「確かめ」てきた我々は終盤において現実世界の田宮に『あまり馬鹿にしちゃあいけない。僕が生きたあの日々を、文字と映像と音の羅列で再現できると思っているのか?たとえば、僕が彼女と手を繋いだ時の想い、それがこのゲームでは「うれしい」という4文字に変換され、感動的なBGMに誘導され、綺麗な映像に収束され、それきりで終わってしまう。』と冷や水をかけられる。僕らが散々「確かめ」てきた感情は原型から省かれ、削られ、砕かれた大まかな状態であるというのだ。これこそが読み手と書き手に存在する明確な温度差であり、その差が蜃気楼のごとく解釈の余地を生む。できる限り温度差を縮めて解像度を高めようとするのも一つの読み方だろう。逆に激しい温度差からより強い幻覚を見るのも一つの読み方だし、その選択は自身の望むがままだ。森溝のいう『「私はこう思う」をもう少し大事に』とはその自由を理解することだと思っている。

 

 

最初の論に戻ろう。物語は読み手の随意である。と僕は思っている。ようは書き手の思考・体験の完全な模倣が出来ないからこそ随意足り得るのだ。夢をいくら確かめようとも「書き手」と同じにはならない。確かめ尽くしても解釈が変わる。つまりそれは読み手の楽しみは無限であるということだ。最後も明歩谷、森溝、古柄と田宮3兄弟の幸せなエピローグからちえりの夢を推察することは出来るが、あれだけシステムで確かめさせたにも拘らずハッキリとさせない姿勢は小粋さすら感じる。首を飾る装飾をヒロイン全員が求めていたことも、夢たしかめ機が首の形をしていることも非常に象徴的だ。作者がそこまで意図しながら書いたのかどうかは置いて、我々の楽しみ方を奨励し、気づかせてくれる物語だったと思っているし、とても好ましい構造だった。