退廃的文明開化

気ままにノベルゲームの感想を投稿します。

『毎日キスしてロリータ』感想

本作には夜のひつじ作品に頻出している(気がする)当意即妙な会話も少なく、互いにだけ伝わる魔法のような符丁もない。主人公は間違えてズレながらも、ただ愚直に重荷にならないように、負担にならないように、地雷を踏まないように会話していく。 
その距離感が心地よいのだろう。求められる姿と自分が乖離しない。というより、主人公はかざりにもみはとにも彼女たちが苦痛にならない自分であること以上を求めない。(作中では言及されなかったが彼女たちはソーシャルロールに適応できなかったのではないだろうか)
逆にかざりやみはとは家族だったり、恋人だったり、究極的にはだめになることを求める。

 

 

この"だめ"を、ある人は退廃的だったり背徳的と言うのかもしれない。またある人は倫理的で賢しらな御高説を垂れたくなるかもしれない。だが、よく考えてほしい。作中にあるように理性こそが原因を産み出すのだ。経済的に論理的に社会的に経験的に生物的に本能的に法的にと尤もらしい原因を理性が見つけてきてしまうのである。

だから、僕らは常に理性の毒に蝕まれている。原因がうまくいかなかったことにしかないのなら、理性的であればあるほどうまくいかない原因は増えていく。そうして"うまくいかない原因"はやがて"できない"になる。増殖する"できない"に雁字搦めにされて、いつの間にか"生きづらさ"へと変わってゆく。

 

本当は自身の感覚を感情を心象を、言葉を用いて正確に転写することなんて不可能なのに、理性はさも、それが全てかのように振る舞う。自分の傷も本当に大切なものも言葉にしたくないのは、それを理性に我が物顔で変換されたくないからなのかもしれない。この毒に耐性がある人はいいだろう。だが、ふとした時にうまくいかない生の原因を見つけては自己否定を繰り返す僕らには、もはやこれは呪いだ。個人でこの呪いに抗う術はないのではなかろうか?と思う。少なくとも僕には思いつかない。というよりも思いついていたらそもそも呪われない。

 

 

理性を忘れて同じ沼に沈むことでしか得られない安心感があるように、理性の下す"だめ"こそがそんな呪いを解消してくれるのだろう。本作でも言葉だけでは理性に削ぎ落とされるから、剥き出しの行動で伝えている。互いにだけ伝わる魔法のような符丁こそないが、キスが"だめ"の合図となっている。だから毎日キスをする。常に僕たちを蝕み続ける理性の毒に抗うために。このキスはさながら頓服薬である。

 

 

さて、散々理性を悪者扱いしたが、実際は言葉も理性も全否定は出来ない。受け取った削ぎ落とされた言葉たちは受け取った側の理性によって肉付けされるのだから。なので、なんとなくではあるが、もしこの物語が主人公とかざりだけだったらうまくいかなかったんじゃないかと思う。主人公には言葉も行動も足りなくて、かざりには言葉が足りないから。そういう意味では欲しい言葉を求めて自分の言葉を重ねるみはとは、彼女らの築くユートピアにとって非常に重要な存在だったと思っている。

 

自己否定を繰り返す僕らの最も穢れていて罪深い箇所は、自己の複製に関与する生殖器である。故にこそ生殖活動を伴う性行為が最大のゆるしになる。合図を交わしてゆるしあう”だめ”な共依存でしか救われないのなら、理性を超えて救われていいと思う。同時に、否定できる人は幸せだとも思う。真っ当な人生で羨ましくもなる。

 

理性に呪われて生を呪う生きづらい僕らが生きづらいまま生きていい。理性の毒に蝕まれたままなことも含めて僕である。今の僕だからこそ感じることがあって、刺さるものがある。その解釈は僕のこの呪われた理性が行う。”隣の芝生は青く見えるが、青くない芝生も悪くはない…”とは思うが、一人で思うだけでは自信がなくなるものである。本当にそうか?と日々問いかけている。だからこそ作者の意図はおいても肯定してもらえた気になれる本作が好きだ。こういうゲームが生まれてプレイするたびに、生きてて良かったなぁとなる単純さが僕がまだまだ生きていける証なのだ。